抜けるような青空の下かけがえのない偉才を失った白菊を捧げる人の波1968(昭和43)年秋、体の不調を覚えた市村は生涯の親友であり、最も信頼する主治医でもあった村上長一氏(当時、大阪回生病院医師)の診察を受けました。しかし、時すでに遅く、食道にできたがん種が肝臓にまで転移しており、余命数カ月という診断がなされたのです。同年12月16日午前7時13分、永眠。享年68歳。 社長急逝の知らせにリコー三愛グループの社員たちは大きな衝撃を受け、市村と親交のあった多くの知人、友人たちが深い悲しみに包まれたのでした。市村清が泉下の客となって半世紀余り、築地本願寺(東京・築地)で行われた葬儀・告別式の様子を中心にお伝えしたいと思います。三愛会各社主催の合同葬儀・告別式が、12月20日午後1時から築地本願寺で執り行われました。前日の通夜は雨もよう、しかも冷たい風が吹き荒れ、悲しみを一層増すような天候でした。しかし、この日はうって変わって抜けるような青空が広がり、温かな日差しが降り注いでいました。この晴天は、生前の市村の徳をたたえ、また、市村との最後の別れに訪れた数多くの会葬者に心を寄せた、天の配慮であったのかもしれません。定刻、築地本願寺輪番・下川弘義氏の導師によって厳かに葬儀が始まりました。祭壇の遺影の周りは紫と黄色のバラで囲まれ、その外側は12500本の白菊で飾られていました。葬儀委員長を務めたのは、市村が生涯最も師事した 4 「君が辛苦に身を起こし、君の波乱万丈の人生はつと石坂泰三氏(当時、経団連会長)。彼は市村の遺影に語りかけるように、弔辞を述べました。に人の知るところ、その事業経営に示された泉の湧くがごとき天外の着想と、生命を賭した烈々たる闘魂と比倫を絶する実行力や、忍耐についても、また贅ぜん言をいげ要せざるところであります。この君の人となりをよく知る私には、君の己に対する厳しさと酷使が君の健康を奪ったように思われて、痛恨極まりなく、述べる辞も知りません。‥‥‥今やわが国は一応産業の復興は成りしものの問題は内外に山積するの秋、これからが君の真に面目を発揮できる日を前に、この異色ある一大偉才を失ってしまった。財界の一大損失と申さなければなりません。‥‥‥君の才幹と徳風は、この経済界に清風となって長く寄与をもたらすでありましょう。これが君を送る日の、せめてもの慰めであります」友人代表の内閣総理大臣佐藤栄作氏、郷里代表の佐賀県知事池田直氏、従業員代表の弔辞の後、焼香に移り、葬儀委員長、喪主、ご遺族、市村との交流が深かった友人、知人らが焼香して故人の冥福を祈りました。寄せられた弔電は3000余通、その中にはマイアミ市長、オーストラリア政府など海外からのものも多数ありました。定刻の2時を十数分過ぎて葬儀が終わり、告別式に移りました。三笠宮宣仁親王殿下、佐藤首相夫人、近衛忠耀氏ご夫妻の献花が終わると、正面の扉が大きく開かれ、一創業者・市村清物語築地本願寺で葬儀を執り行う
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