* 5世のため、人のために役立つ般の会葬者による献花です。友人、知人はもとより、市村とは面識がなかったけれどお別れに来たという人たちも多く、広い境内に入りきれず歩道まで並んだ会葬者は7000余名を数えたのです。思いを生涯抱き続けましたが、その最後の具現化が「新技術開発財団」(現市村清新技術財団)の設立でした。市村清追悼号(1969・4・4発行)の中で次のように綴っています。 「私たちの財産については、早くから世の中に役立てようと話し合っておりました。‥‥学校の設立とかいろいろ考えましたが、結局わが国の新技術の振興に捧げようと決めました。関係者のご尽力によって、その市村は「世のため、人のために役立ちたい」という市村の最大の理解者だった妻・幸恵は『三愛会会誌』財団ができましたのは、亡くなる4日前の12月12日でした。本人もさぞ満足であったろうと、それだけが慰めでございます。‥‥‥亡夫はいつも口癖のように、『人間の生命には限りあるも、企業の生命には限りなし』と申しておりました。なにとぞ市村の遺しました事業の発展にご協力いただきますよう、泉下の夫とともに心よりお願い申し上げます」幸恵は市村の事業の一部を引き継いでおり、まさに二人三脚で歩んだ人生であったと言えるでしょう。市村がこの世を去って55年、市村の興したリコー三愛グループも時代の流れによって変貌を余儀なくされましたが、市村が提唱した三愛精神は脈々と受け継がれてきました。これを機に今一度創業者・市村清に思いを馳せ、グループの一員として何をすべきかを考えてみませんか。* * 幸恵夫人の胸に抱かれて、自宅を後にリコー本社前でお別れをする社員たち築地本願寺の斎場へ会葬者に挨拶をされる石坂泰三葬儀委員長(左)と幸恵夫人多くの弔問客の中に森繁久弥氏(左)や石原慎太郎氏の姿も
元のページ ../index.html#7