三愛会会誌 174
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マーケット・リサーチは〝百貨店のトイレ〟で従業員は事業の協力者恩師の神社に匿名の寄進‒衝撃の抵抗療法戦後間もなく誕生し、何でも扱う店として隆盛を極めた「銀座三愛」も、数年後、国内の食料事情が安定すると経営が悪化してきました。 〝ここはしっかり将来を見据える必要がある。これから需要が高まる業種に変えなくてはだめだ〟ある日、若い女性たちのおしゃべりを耳にした市村は、消費トレンドを調べる奇抜な方法を思いつき、早速、数人の女子学生アルバイトを集めました。 「百貨店のトイレで、女性たちの会話を記録してもらいたいんだ。きっと彼女たちのおしゃべりの中にヒントがあるに違いないから…」2カ月後、集まったデータを分析した結果、市村は若い女性たちの購買意欲が高まっていることを確信。それまでの一切を放棄して、女性ファッションの専門店へ転換することを決意しました。こうして誕生した〝おしゃれ専門店「銀座三愛」〟は、連日若い女性客でいっぱいに。まさに銀座の新しい風となったのです。紙九州総代理店「吉村商会」を開業、初めて自分の店を持ちました。そして、夫婦力を合わせて懸命に働いた結果、売り上げを順調に伸ばし、わずか1年後には福岡市天神に移転して、3人の住み込み店員も雇い入れました。も人脈もない自分が仕事をしていくためには従業員たちの協力が不可欠である、ということでした。君」と君付けで呼びました。給料は相場の6割増しで、3度の食事も皆■って同じものを食べることにしたのです。 「従業員は事業の協力者」「会社にとって最も大事なのは経営者と従業員が愛情によって固く結ばれていること」、これは終生変わることのない市村の信念でした。ました。市村は佐賀中学を中退して郷里に戻ってから、仕事のかたわら岡の塾に通っており、〝高い気概とたゆまぬ努力があれば、独学でも大成できる〟と教えてくれた岡を、生涯の恩師として敬愛しました。ら国幣小社に昇格させることで、そのために各方面に寄付を募って回りました。てもおこがましいと断られ、岡はその意を受け入れました。しかし、寄付金は目標額に達せず、最後に頼ったのがやはり市村でした。 「寄付はいたします。けれども、今後、私が何か問題を起こした時に神社に迷惑がかからないよう、匿名にすると約束してください」翌年、この世を去りました。さて、誰も知らないはずの密約は……思いがけない後日談につながっていきます。1929年3月、市村は福岡市郊外で理研感光人を使う立場になった市村が最初に考えたのは、学歴当時は〝小僧〟と言われていた店員たちを、市村夫妻は「〇〇岡泰雄は三養基郡にあった千■栗■八幡宮の社掌で、私塾の講師も務めてい時が流れて、齢70の晩年を迎えた岡の人生最後の望みは八幡宮を県社か市村にも頼みましたが、自分のような若造が神のお社に寄与するのはと1940年、千栗八幡宮は国幣小社に昇格。岡は最後の役目を果たして、1919年、念願の上京を果たした市村でしたが、昼間は勤務、夜は大学、しかも食事代にも事欠くという耐乏生活で、精神が不安定になり、肺結核を発症してしまいました。医者には転地療養を勧められましたが、もちろんそんな余裕もなく、毎日、布団に潜り込んでうつうつと過ごしていました。そんな市村を変えたのが、江戸中期の禅僧・白隠の『夜■船■閑■話■』にあった言葉です。 「人間が病魔に冒されるのは病気を恐れるからだ。病気だと思い込むから、病菌に負けてしまう。病気に勝つためにはまず精神力を旺盛にして病魔を追っ払ってしまう自信を持つことが第一である」市村は白隠の流儀で病気と闘うと決心し、毎朝、寒中マラソン、冷水浴び、乾布摩擦を実行しました。〝血を吐いて死ぬか、それとも治るか〟、まさに命がけの抵抗療法だったのです。1週間ほど続けるうちに、3度の食事も進み、夜も熟睡できるようになりました。そして、〝死なずに済んだ〟と確信した時、心の苦悩からも解放されている自分を見出したのでした。11        ■       ■■人間性不屈の精神病からの脱却

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