日本の将来を担う科学者たちのために創業者・市村清物語ふるさとの子供たちのために**2 * * 次代を担う人たちのために事業の発展のため、従業員とその家族の幸せのためにとがむしゃらに走り続けてきた市村でしたが、50代半ばを過ぎると、〝今までは事業ひとすじだったが、これからは社会や人々の役に立つこともしたい。一体、自分に何ができるだろうか〟と考えることが多くなってきました。そして、『次代を担う人たちのために…』が市村の人生最後の課題となったのです。市村にとってふるさと・佐賀は、苦難の思い出に満ちた地でしたが、人生をたくましく生き抜くための血肉や力を育んでくれた地でもありました。脊振山地の稜線や筑後の川筋、広々とした佐賀平野、いつも心によみがえるのは懐かしいふるさとの風景でした。それゆえ、いつの日か成功して愛するふるさとに恩返しがしたい、それが市村の夢だったのです。1957年春、祖父の50回忌記念として母校の佐賀県北茂安小学校に講堂を寄贈しました。その当時、小学校の講堂は二度の台風のために倒壊寸前の危機に□していましたから、新講堂は子供たちにとって何よりのプレゼントでした。「待ちに待った市村講堂が出来上がり、うれしくてうれしくて……、ぼくたちみんながりっぱな人間になることが市村先生のご恩にむくゆることだと思います」落成式典において児童代表のお礼の言葉を聞きながら、市村の心も喜びに満ちあふれるのでした。ふるさとの青少年のために贈ったもう一つのプレゼントが1963年の「佐賀県体育館」(現「市村記念体育館」)です。私財2億1000余万円を投じた体育館は、当時としては全国でも有数な超豪華版で、スポーツ大会のみならず、演奏* * 〝青少年の心身を健全に育成する〟という思いを今に受け継いだ新たな形と言えましょう。「裸で生まれてきたから、裸で死にたいと思っている。築いた財産は世のため、人のために使いたい」この信念の下、学校が良いか、研究施設はどうかなどと考えているさなか、病に倒れ、死期を悟った市村は遺産を〝日本の科学人の育成〟のために使うと決意、具体策を部下たちに委ねました。三愛会の役員たちは議論を重ねた結果、〝日本の将来を担う科学人の育成を目指す財団の設立〟が市村の意向に沿うという結論を得て、科学技術庁に設立の認可を申請。1968年12月12日、「財団法人新技術開発財団」(現「市村清新技術財団」)の設立が正式に認可されました。市村の亡くなる4日前のことです。市村は遺言をもって自身所有のリコー三愛グループ各社の全有価証券(当時の時価で約30億円)を財団に寄贈。市村の私邸は財団の本拠地となり、熱海市にあった別荘「清恵荘」も妻・幸恵の死後、財団に寄贈されて研究施設「植物研究園」に変身しました。現在、市村財団は新技術開発助成、市村賞贈呈、少年少女創造性育成をはじめさまざまな事業を展開し、若い科学者やその卵たちを支援しています。市村の思いはここでも今につながっているのです。会や演劇会なども開催、佐賀のスポーツ・文化の振興に大いに寄与したのです。「将来を担う青少年の心身を健全に育成することこそが、国家や社会の発展の最大の基礎である。私が故郷に対して何らかのお返しができるなら、ぜひ彼らの精神と肉体の練磨に役立つような道場にしたい」と願った市村にとって体育館はまさにその具現化で、〝体育館を贈ったことは、私が故郷に残し得る一番大きなものになったかもしれない〟と思うのでした。2001年10月、神奈川県松田町に「市村自然塾関東」、翌年1月、佐賀県に「市村自然塾九州」が設立、毎年、新しい塾生たちを迎えています。「生きる力を大地から学ぶ」を基本理念とした自然塾の活動は、市村が目指した 市村の思いを今につなげる 佐賀県みやき町立北茂安小学校講堂(1957年寄贈)佐賀県体育館(現 市村記念体育館 1963年寄贈)
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