今月の市村清

Monthly

“今月の市村清”―2024年2月編―

「実業家になっても、政治家になっても必ず“一方の雄”となり得る人」

~石原慎太郎氏との出会い~

2月は暦の上では立春を迎え、春の始まりであり1年の始まりとされていますが、実際はまだまだ厳しい寒さが続きます。
そんな寒い時期の2022年2月1日、作家でもあり政治家でもあった石原慎太郎氏が89歳でこの世を去りました。1999年から4期連続で東京都知事に就き、歯に衣着せぬ発言がしばしば注目を浴びた石原氏は、世間では政治家としての印象が強いかもしれませんが、大学在学中に文壇デビュー作の『太陽の季節』が芥川賞を受賞するなど若いうちから作家としての才能を発揮していました。

市村清は生前、作家としてはもちろん映画出演・監督としても脚光を浴びている石原氏と、一度話をしてみたいと思っていました。
それが実現したのは、1958年発行の『三愛会会誌 第20号』での対談で、石原氏25歳、市村58歳の時でした。対談では、芸術家、タレントなどの「人気商売」と会社などの「事業」とを比較しながら、事業の勘どころについての会話がはずみ、意気投合した二人の付き合いは、その後市村が世を去るまで続きました。

市村が初めて石原氏に会った時の印象を、後に自身の著書でこう述べています。
―― 石原慎太郎さんは、かねて私がお会いしたいと思っていた人だ。果たして会ってみて、初老の私がかえっていろんなことを教えられた。敗戦というどん底の中から、このようなすぐれた青年が、いつの間にかスクスクと育っていたことを思うと、私は、日本の将来に大きな希望を持つことができる。私は石原さんは、実業家になっても、政治家になっても、必ず一方の雄(傑出した人物)となり得る人だと感じた。――

市村が亡くなった翌年4月に発行された三愛会会誌『市村清追悼号』に、石原氏は「鶴の眼光」と題し、次のような一文を寄せています(一部抜粋)。
「私はいろいろなことで市村さんのお世話になったが、他の人と違って、この借りを市村さんに対してでなく、何かもっと大きな形で社会に向かって返さないといられないようなものをいつも感じさせられた。市村さんは、決してそのようなことを口に出しては言われなかったが、しかし、相手にそう感じさせることが、市村さんの卓抜な経営者としての哲学のにじみ出た故であると思う。
あの人の網膜には、いつも、自分の企業を通して、明日の社会、明日の人間たちの姿が映っていたに違いない。それが確かに見える、稀有な人間の一人であった。」

物事に対して先見の明があった市村ですが、初めての出会いで既に石原氏の将来を見通していたことから、人に対しても先見の明があったのかもしれません。きっと石原氏も、市村に対し自分と似たものを感じていたのでしょう…。

画像:市村清の葬儀で献花する石原氏(1968年12月)
市村清の葬儀で献花する石原氏(1968年12月)
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜