ICHIMURA KIYOSHIICHIMURA KIYOSHI

市村清の写真

市村清 125th

SCROLL

THE 125TH ANNIVERSARY
OF KIYOSHI ICHIMURA’S BIRTH
IS THIS YEAR.
HE WILL CONTINUE TO
INFLUENCE MANY PEOPLE
IN THE FUTURE.

WHO IS HE

市村清とは

リコー三愛グループ創業者・市村清。
1900年に佐賀県の貧しい農家に生まれた市村は、経済的な苦境や幾多の困難を乗り越え、若くしてビジネスの世界へ飛び込みました。

さまざまな困難を克服しながら、社会基盤を築きあげた市村は革新的な事業を次々と起こします。
カメラブームのキッカケをつくり、国内初の卓上ジアゾ複写機は事務作業の合理化に革命をもたらしました。
銀座のランドマークとなった三愛ドリームセンターの建設など、誰もが驚くようなアイデアを次から次へと生み出し事業へとつなげました。

そして今年、市村清は生誕から125年。その生涯で残した功績や思いは、今もなお多くの人々に影響を与えつづけています。

LIFE

市村清の生涯

不屈の精神が育った幼少期

佐賀県の農家の長男として生まれた市村。
貧しい中で祖父から与えられ
大切に育てた牛を執達吏に
持っていかれたことが
「生涯でいちばんくやしかった」
という。

波乱の
サラリーマン時代

中国の大東銀行に勤務し、支店長代理に昇進。25歳で松岡幸恵と結婚。順調な人生から一転、金融恐慌により大東銀行は閉鎖。さらに横領容疑で5カ月間の監房生活を送る。ただそこでも「トイレットペーパーの芯で将棋を作る」という持ち前のアイデアで、仲間を喜ばせていた。

佐賀へ帰還・
理研との出会い

容疑が晴れて帰国し、熊本で富国徴兵保険の
外交を始めた市村。全国トップの成績を収めると、
故郷・佐賀に戻り富国徴兵保険の監督官に昇進。
その後、理化学研究所が開発した陽画感光紙の
九州総代理店の権利を譲り受け、福岡で独立。
業績を爆発的に伸ばした。

大河内正敏博士との縁

理化学研究所所長の大河内正敏博士から、
理化学興業株式会社の感光紙部長に招聘。
周囲の嫉妬から何度も衝突するも、
大河内所長の好意で感光紙部を独立させ、
理研感光紙株式会社を設立した。
市村は専務取締役に就任し、
これがリコー三愛グループの出発点に。

世間のトレンドを
掴んだ三愛

戦後、サービス業が最適と判断し
三愛商事を創立した(のちの三愛)。
銀座4丁目の角にオープンした店舗は
数年後、女子学生アルバイトに
トイレでの会話を調査させ
最新トレンドをキャッチする
斬新なアイデアの結果、
婦人ファッション専門店に業態転換した。

一人もクビにしない
リコー時計の誕生

世間から事業家として認められた市村はある日、
時の通産大臣らの要請で中京地区の高野精密工業の再建を引き受ける。
「従業員は一人もクビにしない」と約束して従業員からの信頼を獲得。
社名をリコー時計(現・リコーエレメックス株式会社)に変更し、
ヒット商品を生み出し再建を果たす。

1900~

1922~

1927~

1933~

1946~

1962~

1963~

世の中の役に立つこと、
そして故郷佐賀への恩返し

日本初のリース会社
「日本リース・インターナショナル」の創設、
当時のIOC会長が「すべてが国際級」と絶賛した
ホテル三愛(現:札幌パークホテル)など、
晩年も多くの事業を手がける。
自分を育てた故郷佐賀に最大の贈り物
「佐賀県体育館(現・市村記念体育館)」を寄贈。

ACHIEVEMENTS

市村清の足跡

JAPAN'S FIRST

あのトレンドも市村が作った?
「日本初」を次々と
世に送り出す

リコーフレックス Ⅲ型

カメラブームの火付け役
二眼レフカメラ リコーフレックス

カメラ業界初のベルトコンベア方式による大量生産を実現した
二眼レフカメラ、リコーフレックス。
当時贅沢品だったカメラを安価で提供することにも成功し、
カメラの大衆化・一大ブームを巻き起こした。
国内のカメラ生産量の50%以上を
この一機種で独占したと言われている。

日本の産業界では初のベルトコンベアシステムを採用(1953 年)
リコピー303・505の生産風景(1957年)
リコピー101

国内初の卓上型ジアゾ複写機を発売
「リコピーする」という動詞も生まれる

ジアゾ複写機1号機「リコピー101」と、
それに続く一連のリコピーシリーズによって、
事務作業は飛躍的に合理化された。
「複写する」という代わりに
「リコピーする」という動詞が生まれるほど革命的な、
オフィスオートメーション(OA)の先駆けとなった。

当時の広告
開店披露のテープカット
三笠宮、同妃両殿下
(1958年9月)

近代都市の華やかな新名所 西銀座デパート

戦後の復興により変わりつつあった昭和30年頃の銀座。
50以上の老舗が軒を連ねる「西銀座デパート」は、
計画から紆余曲折あったものの、初代社長となった市村の尽力もあり開店。
これほど専門店の集まった百貨店形式の経営形態は全国で初めてで、
市村の出店する「三愛」は流行の最先端として、
常に若い女性たちで賑わった。

みんな大好きコカ・コーラ
その魅力に初めて気づいたのも市村

コカ・コーラの製品製造と販売に九州地区で
いち早く名乗りをあげた、
福岡で遊戯業を営む佐渡島匡男。
佐渡島は市村を代表者に据え、
この事業を実現したいのだと懇願。
その熱意と、「当時の日本人は、
アメリカ文化に興味津々のはず」という予測から、
日米コカ・コーラボトリングの取締役社長に就任。
コカ・コーラの爆発的な普及に大きく貢献した。

日米コカ・コーラボトリング 鳥栖工場落成記念(1968年6月)
福岡工場で製造した第1号のコカ・コーラを味わう(1963年)
日本リース・インターナショナル 品川サービスセンター 落成披露会場

「使用すれど所有せず」時代を予見!
日本初のリース会社を設立

日本初のリース会社である
「日本リース・インターナショナル」を創設したのも市村。
「使用すれど所有せず」や「利益は所有からではなく使用から生まれる」などの
キャッチフレーズで大きな反響を呼んだ。
実は人材派遣業も構想していたのだが、当時の職業安定法に触れ実現せず。
現代のリース業や人材派遣業の隆盛を見ると、
その先見の明に驚かされる。

リース物件第1号となった高級車
デボネア

JAPAN'S FIRST

CREATIVE IDEAS

型にはまらないアイデア
創造する新しい価値

荒廃した明治神宮を救うため
結婚式場・明治記念館として再建

敗戦直後、すさみ果てていた明治神宮。
その再建の依頼を受けた市村は、
終戦に伴い結婚する人は増えると予期し、
憲法記念館を結婚式場として再建することを提案した。
いやしくも神宮の名前を使う事業で暴利を取るわけにはいかない。
「儲けるより儲かる経営」の極意はこのとき生まれた。

ハイドラントシステム(東京国際空港 1955年)

給油作業でもアイデアを発揮

航空機の燃料を給油する事業を託された市村は、
三愛石油(現:三愛オブリ株式会社)を設立。
ある日、航空機の給油作業でタンク車が機体に横付けするのを見て、
「水道管のようなもので直接燃料を送れないだろうか」と思い、
地下パイプで直接送油する「ハイドラント方式」を実現。
世界の先駆けとも言えるアイデアだった。

羽田営業所開設 テープカット(1952年10月)
三愛ドリームセンター

交番までもをガラス張りに
美しい光の塔・三愛ドリームセンター

「日本一のここに、世界一珍しい建物を」という
コンセプトのもと、市村は銀座4丁目角の三愛を
三愛ドリームセンターに改築。
美しい金属カーテンやドーナツ形のショーケースなど、
市村のアイデアがふんだんに用いられたつくりになった。
総仕上げに最寄りの交番を、
ガラス張りのオシャレ仕様に変身。
午前0時の開店披露宴は話題を呼び、
中央通りの歩道に有名店の露店が並び
深夜の銀座に多くの人が詰めかけた。

第一回 市村賞贈呈式
市村賞トロフィー

日本の未来を想う
「市村最後の仕事」
新技術開発財団

市村が亡くなるわずか4日前。
「新技術開発財団(現・市村清新技術財団)」の
設立が正式に認可された。
人生最後の仕事として、これまでに築いた財産を
日本の将来を担う科学人の育成に使いたいと望んだ市村。
その意思を継ぎ、科学技術の研究開発や顕彰、
国際交流の促進、少年少女の創造性の育成、
植物研究等々に対して、
今もなおさまざまな助成を展開している。

CREATIVE IDEAS

FOR SAGA

故郷への熱い想い
市村が佐賀に遺したもの

自身を育んだ故郷への恩返し
北茂安小学校の「市村講堂」

故郷佐賀での生活は家族や友人との絆を深めながらも
貧困ゆえの苦難に満ちた少年時代を過ごした市村。
時が経つにつれ故郷への懐かしさを募らせ、
将来を担う子供たちのために寄付を申し出て
母校に建設されたのが「市村講堂」である。
小学校には歴代校長と並んで市村の肖像写真が飾られるなど、
今でも市村は地元のヒーローとして讃えられている。

「佐賀の子どもたちの未来のため」
願いを託した佐賀県体育館

佐賀城公園内に位置する佐賀県体育館(現・市村記念体育館)は、
市村が故郷への恩返しとして
私財2億有余円(当時)を投じて建設・寄贈したもの。
将来を担う子どもたちの心身を
健全に育成することが、市村の願いだった。
竣工から60年余、市村記念体育館は
佐賀の未来を創る文化・芸術施設として
リニューアル予定。

市村記念体育館落成式
佐賀県体育館
サガテレビ

県民の声に応えて誕生
日本一小さなテレビ局・サガテレビ

佐賀県民から届いた、民間のテレビ局開局を切望する声。
市村は九州電波監理局に
台風や災害発生時の速やかな情報伝達のためにも、
民間のテレビ局の必要性を強く訴えた。
一度はその訴えは退けられたものの再申請の末に認可され、
佐賀県民に親しまれていた「サガテレビ」という社名にて開局。
当時は、日本一小さいテレビ局の開局だった。

初期の編集室(1969年)

FOR SAGA

IN THE FUTURE

三愛会のこれから

そして、市村清生誕から125年・・
市村清のレガシーは
今も受け継がれ、社会を支えています。

これからもリコー三愛グループは
市村清の「三愛精神」に立脚し、
利益創出と企業価値増大を目指すとともに
持続可能な社会の実現に
貢献してまいります。

「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」市村清

三愛精神とは

「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」は
リコー三愛グループ共通の創業の精神である。
世界人類の一員として、
まずすべての人を愛すること。
そして祖国・地球を愛すること。
自己がこの世に生をうけた意義を果たすため、
自分にあたえられた任務を愛して
一生懸命にはげむこと。
市村清は世界中の人々の幸せと
平和で明るい未来を願っている。

三愛会サイト トップ