今月の市村清
Monthly
“今月の市村清”―2025年6月編―
魅力ある会社に
―万博へ懸けた思い―
いよいよ待ちに待った“2025年大阪・関西万博”が始まり、盛り上がりを見せています。
過去には、リコーも1970年に開催された大阪での万国博覧会に出展しています。
そもそもリコーが万博に出展することになったいきさつは、66年9月に届いた1通の書簡が始まりでした。
差し出しは、市村が最も信頼する友で、当時万博協会会長に就いていた石坂泰三氏からでした。
『1970年3月から9月まで大阪において日本万国博覧会を開催することになりました。産業、文化のオリンピックともいうべきこの博覧会の成功は、主催国日本の総力を結集してこそ初めて可能であると申し上げても過言ではないと存じます。(中略)
国内出展の申し込み受付は67年4月から開始する予定ですが、同封の参加案内をご高覧いただきまして、ぜひともご出展くださいますよう、予めお願い申し上げる次第であります。』
この公式文書を受け、社内では万博への出展によって及ぼされる効果の検討をしましたが、当時のリコーは無配転落による痛手から完全に立ち直ってはおらず、多くの意見として出展見送りという空気が強かったのです。しかし、67年3月に開かれた三愛会常務理事会で正式に議題に上がるや否や、市村はすぐさま出展を決めました。当然反対意見も多く出ましたが、市村はそこで、君たちには将来が見えていないと役員たちを叱咤しました。そして、「実は私も迷っていた。しかし、諸君がこぞって反対するのを見た時、私の心は決まった。万国博にも出展できない会社なんて魅力が無いじゃないか。」
そう言って断固決意を固めた市村は、出展申し込み第1号を得るため、申し込みの始まる67年4月1日早朝に抽選会場に赴きました。第1号の獲得は有利な敷地を早く確保することができるうえ、世間からの注目を浴びることで宣伝効果もバッチリこの上ありません。
当然他にも第1号を狙っている企業は多く、全部で19社が名乗りを上げるなか、抽選の結果みごと市村が第1号を引き当てたのです。これにより、リコー館はメインとなる“太陽の塔”のすぐそば、人工湖と日本政府館に面した絶好の場所に3200㎡の土地を確保することができ、すべての面で有利に事が進められました。
市村が周りの反対を押し切って万博への出展を決めたことで、社内では不穏な空気が漂っていました。しかし、万博への期待感から社員の士気が上がり、万博が終わってみれば社内の雰囲気は達成感に満ちていました。さらに、このときに開発された多くの革新的な技術は後のリコーの商品開発に応用され、万博への出展はリコーの技術力を向上させ、リコー三愛グループの名声を確実なものとしました。リコー館の成功とのちのリコー三愛グループが躍進する様を市村は確信していたことでしょう。さすがは先見の明・市村清!あっぱれです。
