今月の市村清
Monthly
“今月の市村清”―2024年12月編―
市村最後の事業
~新技術開発財団(現:市村清新技術財団)の設立~
市村清が1968(昭和43)年にこの世を去ってから56年。癌の転移により68年の秋に入院してからわずか数カ月で永眠。当時、社員たちが受けた衝撃は相当なものでした。
市村は生前から次代の子どもたちのためにと故郷の佐賀県に体育館や講堂を寄贈していますが、それ以外にもよく「全財産を何か世のため、人のために使いたいと思うけど、何がいいだろう?」と重役たちに相談していました。自分の財産はグループ会社・従業員、協力会社の努力によって出来たものだから、自分のためでなく世の中のために使いたいと思っていたのです。
事業家・市村清の名は広く世間に知られるようになっていましたので、市村の信念を形にするには何がいいのか、重役たちも頭を悩ませたことでしょう。
市村大学の設立というアイデアも出たようですが、学校経営の難しさや、市村の学問のみならず日本の将来を担ってくれるような科学人を育てたいという思いもあって、大学構想は消えました。
そうこうしているうちに市村が病に倒れ、余命があとわずかという事を知った重役たちはすぐさま議論を重ね、“日本の将来を担う科学人の育成を目指す財団を設立する”という結論に達し、科学技術庁(当時)に新技術開発財団の認可申請を行う事になりました。
当時リコー専務だった三善信一氏は、「本人の気持ちを生かすには、日本の科学技術の発展に長く貢献できる事業を援助・奨励する制度を作ろうと皆で話し合いました。そういう制度は、当時はまだ社会的にほとんどありませんでしたから…。」
病床でこの報告を聞いた市村は非常に喜んだといいます。
新技術開発財団の設立が正式に認可されたのは、市村が亡くなるわずか4日前の12月12日でした。
財団のおもな事業の一つである新技術開発・研究に対する顕彰は『市村賞』と名付けられ、毎年4月に贈呈式が行われています。
そのほかにも、科学技術の研究開発助成、新技術顕彰、子どもたちによる『市村アイデア賞』など少年少女創造性育成、植物研究助成などを行っています。
財団は、市村所有の全有価証券や、後に逝去した妻幸恵の所有する有価証券などが遺言によって遺贈され、これら財産の果実をもって事業展開されています。
さらに東京都大田区北馬込にある市村の私邸と熱海にあった別荘の清恵荘も寄贈され、それぞれ財団の事務所、植物研究園として現在も活動・運営されています。
三善氏によると、市村は病に伏した時からすでにこの財団の設立が自分の生涯最後の事業になることは悟っていたのではないかとのこと。病床の市村に財団設立が認可された報告をした際、小さく“ああ”とうなずいたそうですが、すでに意識も混濁した状態だったそうです。それでも、「最後に手掛けられた仕事が無事スタートできたことに安心されたことでしょう。」と語っています。