今月の市村清 Monthly
“今月の市村清”―2026年7月編―
馬込の丘に建つ家
―事業に生き、社会に還元した市村の軌跡―
東京都大田区北馬込の高台に市村が居を構えたのは1937年、37歳の時。晴れた日には富士山がくっきりと空に浮かび、海の風と山の風が交互に吹いて健康上にも住み心地が良いと決めた場所です。眼下の細い道に面して建っている工場がその年に事業の多角化を図るため買収し設立した旭光学工業であったのは全くの偶然であったといいます。今の邸宅は1954年に建て替えられ、市村が亡くなる1968年まで終の棲家としたもので、曲線を生かした優雅な設計や出窓、らせん階段などが取り入れられています。そこには、合理性だけでなく美しさをも大切にする市村の美意識と感性が表れています。効率や利益のみを追うのではなく、人の心に残るものをつくろうとする姿勢は、事業においてだけでなく、この住まいの細部にも息づいていたのです。
また興味深いのは、邸宅前の細い砂利道が、後に幹線道路である環状七号線へと発展した点です。1962年当時の記録に「今にこの道路は自動車が一杯になって身動きが取れなくなるよ」という市村の言葉があります。当時はまだ自動車は特別な物でしたから、到底そんなことになるとは想像しえなかったと思います。時代の流れの中で周囲の風景は大きく変わりましたが、その中心には常に市村が拠点としたこの場所があり続けました。市村の選択は都市の発展とも重なり、その先見性を物語るものといえます。
そして何より印象的なのは、この邸宅が最終的に市村清新技術財団へと寄贈され、社会に役立つ拠点として活用されていることです。市村は生前から「自分の財産はグループ会社・従業員、協力会社の努力によって出来たものだから、自分のためでなく世の中のために使いたい」と周囲に話をしており、財団設立を最後の事業として次の世代へとつなげていこうと考えたのです。その姿勢は、まさに市村が生涯大切にした「三愛精神」の理念そのものだといえるでしょう。
市村にとって、この邸宅は事業への覚悟、美へのこだわり、そして社会への責任、そのすべての結集であり単に“建つ”物ではなく、一人の人間がどのように生き、何を大切にしたのかという「足跡」を感じ取ることができるはずです。
市村邸は竣工から70余年が経ち、2029年までに建て直すことになりました。時代が過ぎ市村の遺した形あるものの老朽化は避けられませんが、市村がこの地で過ごし、リコー三愛グループが作られた歴史、彼が説いた三愛精神はこれからも変わることなく受け継がれていくでしょう。