今月の市村清
Monthly
“今月の市村清”―2025年7月編―
市村清と手紙
―真心を伝える―
7月は文月(ふみづき)と呼ばれます。皆さんは、最近手紙を書いたことがありますか?数年前、日本郵便が行った調査では、84%の人が月1回以下という結果もありました。手紙に代わる様々な連絡手段がある中で、当然の結果とも思いますが、真心を伝えたいときには、やはり直筆の手紙やはがきを利用するという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
市村清の時代には、今に比べれば手紙は当たり前に使われていたコミュニケーション手段であったとは思いますが、そのようななかでも市村は、手紙を有効に使ってその誠実さを相手に届けていたといえましょう。
市村の物語で手紙が最初に登場するのは、器量よしの女の子に宛てたラブレター、当時は恋文と呼んでいたものです。自分では手渡すことができずに、悪童仲間の多々良氏にキューピット役を頼みました。キューピット役の特権で、多々良氏が内容を見てみると、なかなかの名文だったといいます。
小学校時代の恩師、牟田健作氏も、市村は、達筆で文書構成力にも秀でていたと回顧しているので、この最初のラブレターも説得力のあるものだったに違いありません。(因みにこの恋は成就しませんでした。)
また、東京へ出て共産主義にかぶれて、その思想を突き詰めて行くうえで、関係のある人達に迷惑がかからないようにとの思いから、両親をはじめ親しい友人知己に絶縁状を送っています。やがて肺病にかかり、この肺病をマラソンと乾布摩擦という抵抗療法で乗り切ってしまうわけですが、この時に書いた絶縁状の内容は、後々まで市村の脳裡に深く刻まれていたといいます。
手紙がその後の人生を大きく変えたのが、保険勧誘時代のことです。最も保守的で保険勧誘が難しいと言われていた熊本県を任され、そういう場でこそ自分の本領が発揮できると意気盛んに熊本に乗り込むものの、1件の契約もとれずに2か月が過ぎます。とうとう弱音を吐いて、一緒に東京へ夜逃げしようと、幸恵夫人に打ち明けるのですが、「あなたの履歴にひとつの成果もなかった、という汚点を残したくない」という幸恵夫人の励ましを受け、翌日も訪ねたところ、69日目にしてようやく契約をとることができたのでした。この時の決め手は、実はそれまでに何度も訪ねては追い返され、それでも毎回丁寧なお礼状を書いていた、その手紙の文字、そして誠実な内容が結果的に相手を突き動かし成約にこぎつけたものだったのです。
幸恵夫人の回顧によれば、この保険勧誘の時には、毎日、外回りから帰ると、その日に回ったところへの手紙を何十通も書いて、書き終えるまでは寝なかったといいます。
また、理研感光紙の販売を始めた頃、新規のお客様の開拓の時も、セールスから帰ると、せっせと手紙を書いていたそうです。
さらに、これは仲睦まじさを象徴する話ですが、市村が出張で家を留守にすると、国内外問わず、行った先々の旅館やホテルから、必ず夫人宛ての手紙が届いていたのだそうです。
このように、市村は、仕事にせよプライベートにせよ「手紙」を通じて、誠実さと真心を届けそれがおのずと信頼獲得に結び付いていたのではないでしょうか。
文月を機会に、手紙の効用について、みなさんも思い起こしてみてはいかがでしょうか。