今月の市村清

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“今月の市村清”―2025年3月編―

家族同様の愛情を

―従業員は事業の協力者―

市村清は上海から帰国後、熊本で富国徴兵保険の保険勧誘員として素晴らしい実績を挙げ、その成績が認められて1928(昭和3)年から佐賀に赴き監督として仕事をしていました。そこで佐賀の保険代理店業を兼業していた吉村商会の吉村吉郎氏と出会いました。吉村商会は理研感光紙の九州総代理店もしていた関係で、市村はその権利を譲り受け、1929(昭和4)年3月から「吉村商会」の名前で理研感光紙の販売を始めました。初めて自分の店を持つということで、好きだったお酒や囲碁将棋などの娯楽も一切やらず、荷造りから営業、配達まで一人三役をこなし、妻の幸恵と精力的に一生懸命働いた結果、売り上げを順調に伸ばしていました。さすがに夫婦二人では仕事がさばき切れなくなり、福岡近郊に構えていた店舗を福岡市天神に移し、住み込みの従業員を3人雇うことにしました。
市村は、自分のように特別な学歴も人脈も無い者が今後伸びようとするには、従業員が心からの協力をしてくれるかどうかにかかっていると考えました。そこで物質的にも精神的にもよそより優遇することにし、給料は他より6割高の8円にし、さらに精神的な優遇として、当時“小僧”と言われていた従業員たちをどんなに若くても“〇〇君”、“〇〇さん”と呼び、使用人ではなく事業の協力者として扱いました。そして三度の食事も皆と一緒に食べるようにしました。幸恵は市村の健康状態を心配し、せめて市村にはタイの刺身でも付けたい…と申し出ましたが、それも一切断り、子どもへ向ける愛情と同じように従業員へも接するということに徹底したのです。
これで彼らが働かないわけがありません。市村は従業員からの信頼を得て、 “吉村商会”はより一層売り上げを伸ばし、次の年にはまた従業員を増やし…という事を続け、1933(昭和8)年ころには約50人の大所帯となっていました。
よく他の代理店主から「市村さんは実に店員の運に恵まれていますね」と言われたようですが、それは運ではなく市村の従業員に対する信頼と愛情が実を結んだ結果だったのです。
「会社にとって最も大事なのは経営者と従業員が愛情によって固く結ばれていること」、これは終生変わることの無い市村の信念でした。

画像:吉村商会を創設したときの場所を訪ねて(福岡市郊外)1951年
吉村商会を創設したときの場所を訪ねて(福岡市郊外)1951年