今月の市村清

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“今月の市村清”―2021年10月編―

恩師と二人だけの約束

—市村らの寄進によって国幣小社となった千栗八幡宮—

画像:千栗八幡宮 146段の石段
千栗八幡宮 146段の石段

10月、神無月(かんなづき/かみなしづき)は、各地の神様が出雲大社に出向くため神様が不在の月とも言われていますが、市村清の生まれ育った佐賀県みやき町にも、「千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう)」という724年(神亀元年)創建の神社があります。
この千栗八幡宮は九州五社八幡宮の一つに数えられ備前国一宮として由緒ある神社で、市村の恩師である岡泰雄が社掌(のちに宮司)を務めていました。市村が家計を助けるために野菜売りをしていた頃、岡は社掌を務める傍ら私塾を開き子供たちを教えており、市村は野菜売りの仕事を終えて夕方から岡の私塾に通い学習し向学心を極めていました。

千栗八幡宮は神社庁が定める県社という佇まいでしたが、岡がよくよく史料を調べると国幣小社になる資格があることがわかったのですが、現状の古びた社殿のままでは昇格できないため、社殿をはじめ鳥居や拝殿などを改修するための寄付を募り、人の目につくところはすべて改修しました。しかし、神殿御内陣の装飾や勾玉、鏡、剣などひと目につかないところへの寄付はいっこうに集まりません。
そこで、岡は市村を訪ね寄付をして欲しいと頼みました。当時の市村は理研光学の社長となりお金の工面には困ることはなかったものの、まだ三十代。「こういった寄付は少なくとも、七十歳を過ぎて功成り名遂げて過ちのないような人から寄付を仰いだらよいでしょう。」とお断りの返答をしました。それは、寄付金の使い道が御内陣であり、すべての参拝者が拝む神聖なところなので、これから先、自分が女性問題などで新聞沙汰にならないとも限らない。万一そんなことでもあったら、参拝者はどう思うだろうか?自分自身に不都合なことが起こってもそれによって故郷の千栗八幡宮に悪影響が及ぶことを避けたかったのです。岡も「もっともだ」と寄付の話は無いものになりました。しかしその後も御内陣に寄付してくれる人は見つからず、業を煮やした岡は再度、市村を訪ねました。恩師の再度の頼みとあっては断ることはできず、「寄付したことを誰にも言わないと約束されるのなら寄付いたしましょう」と条件を付けました。こうして市村の多額の寄付により御内陣の改修も整い、晴れて国幣小社の認可を得ることができました。
ですがそんな事情を知らない実父の豊吉は市村が寄付をしないことに苛立ち、「寄付をしないとは何事だ。それならば、お前が買ってくれた田地を売って俺が寄付をする」と言ってさっさと田地を処分し、当時のお金で800円を寄付してしまいました。豊吉に誤解されてもなお、市村は筋を通して寄付したことは一言も口外しませんでした。

国幣小社の昇格祭を終えて間もなく岡が急逝し、寄付のことは誰にも知られないままでしたが、岡は生前、高田装束店の高田にだけその一部始終を話していました。高田は明治記念館を再建するときに、市村が今どき非常にめずらしい好人物で、再建を託せるほどの人格者であることを関係者に証明してくれたのでした。これも市村の持つ巡りあわせとでも言いましょうか。自身の行いが進むべき道を後押ししたのです。後年、千栗八幡宮に設置された「奉賛会寄付者芳名碑」に会長として市村の名前も刻まれています。豊吉も誇らしかったに違いありません。

ところで、この千栗八幡宮には146段、高低差25メートルの石段があります。今年3月、53歳の若さで亡くなった日本柔道界のレジェンド 古賀稔彦氏がみやき町の出身で、少年時代にこの石段を昇り降りして足腰を鍛えたことでも有名です。

画像:市村の名前が刻まれている寄付者芳名碑
市村の名前が刻まれている寄付者芳名碑
画像:古賀稔彦氏を称える「栄光への石段」石碑
古賀稔彦氏を称える「栄光への石段」石碑