画像:留置場生活

第9回留置場生活

銀行閉鎖で巻き添え
暑さのむし返しには参る

昭和二年の金融恐慌の波紋で大東銀行は閉鎖することになったのだが、その直前に私は、共栄銀行の小出頭取や原口常務から妙なことを頼まれた。大東銀行の認可を得るためと貯蓄債券発行の権利を得るために、中国の要人の抱き込みに使った金が相当あるし、調べられれば責任になるような二、三の書類を焼き捨ててくれというのである。はっきり合点のいくことではなかったが、お二人には結婚のときにも費用から紋付き羽織まで全部いただいたりして恩がある。実際に君がタッチしたわけではないのだから、君ならたいしたこともなくすむだろうといわれて、一件書類を焼くくらいのことはいいだろうという気になった。
この大東銀行は資本金五百万円、払い込み百二十五万円だが、実際払い込みは三分の一で、三分の二は共栄貯銀への貯金の形で発足していた。恐慌で金を送ってこなくなるとたちまち閉鎖することになったので私は約束通り一件の書類を全部焼いてしまったのである。ところがやはり邦人系の上海銀行がつぶれたとき、その支配人で愛人などをもっている丸山氏が、銀行の金をごまかして内地へ持ち帰ったといううわさが流れた。そのうわさに私もいっしょにされたらしく、ある朝いきなり上海領事館の司法部の手で寝込みを襲われて留置場に放りこまれてしまった。書類焼却の一件かと思ったらそうではなく、日本人から送金依頼のあった預金引き出しを流用して、日本に送っていないのは横領罪の疑いがあるというのだった。
全く覚えのないことだったが、私は何を調べられてもいっさい言わないことにした。そのうえ捕えられる前に、預金者に迷惑をかけてはいかんと思ってほとんど寝ずに業務をかたづけていたのですっかり寝不足になってもいた。ここまでくればもうおれの知ったことじゃない、とむしろほっとしたものだから留置場の第一夜から大いびきで爆睡してしまった。それが、こいつは意外な大物かもしれない、前科もあるそうだ、ということになったらしい。私の取り調べは急にきびしくなった。故郷の家から親類まで家宅捜索を受けた。そして私自身は四月十三日に独房に入れられてしまった。
私は別に悪いことをしたわけではないし、独房生活など少しもこたえないので、腹をきめてゆっくり読書に日を送ることにした。宗教や経済の書物を入れてもらって四月、五月、六月と静かな読書にむしろ身をいれていた。が、七月になるとさすがに暑さで私もまいってきた。大陸の夕方の照り返しに、監房はムッとして気がいらいらし始めた。そのうえ、結婚して間がなく、他に遊びの経験もない私は、やたらに妻だけが恋しくてならなかった。
房のほうきの中に〝先住者〟がし込んでいったえんぴつのシンで落書きをしているうちに、私はいつか夢中になって女の裸体画を描いていた。まずいことにそれを検査のとき見つかってしまったのである。捕えられてからの私は強情でひと口も割らない容疑者だったから、なにかと拷問の機をねらわれていた。それが絶好の懲罰の理由になったのだろう。とうとう絶食三日を言い渡されてしまった。
若いから二日や三日は水だけのんでいればたいしたことはないと思ったが暑さのむし返しにはまいった。窓わくの鉄棒が何本にも見えはじめ、視角がちらつくと実際いまにも気が狂うんじゃないかと思った。権力にも金力にも決して負けんぞという信念をもっていた私も、人間の力の持つ限界にぶつかれば何もかもおしまいだ、そう考えると不安であった。
そのうちに八月にはいると、急に犯罪者がふえたのだろうか、監房がいっぱいになるほど逮捕されてはいってくる。私の独房にも、三人の密輸犯がぶちこまれ、急ににぎやかになってきた。

(日本経済新聞:昭和37年3月1日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜