今月の市村清

Monthly

“今月の市村清”―2022年4月編―

よりよき人類の眼

―最後の傑作 万博リコー館―

日本で初めて万国博覧会が開催されたのは、1970年春のことでした。芸術家・岡本太郎氏がデザインした「太陽の塔」で有名な万博。そこから遡ること4年前、市村清のもとに日本万国博覧会協会会長 石坂泰三氏から出展を要請する1通の書簡が届きました。当時のリコーは無配転落から立ち直っておらず、そんなときに万博出展など到底承知できない案件で社内は出展見送りの空気に包まれていました。市村は「実は私も迷っていた。しかし、諸君がこぞって反対するのをみたとき、私の心は決まった。万国博にも出展できない会社なんて魅力がないじゃないか。」そう言って出展を決めたのです。

出展に10億円を投じたことが報道されると世間も驚き、リコー三愛グループは旧財閥グループと比べても規模も小さく、ましてや無配の状況であり周囲は疑問に思ったのでした。“アイデア社長の市村らしいやり方だ・・・”と揶揄されることもありました。そんな世間の声など気にもしない市村の万博構想は「理光―よりよき人類の眼」。グループの中心であるリコーは“光の技術”で世の中に貢献してきた会社。「理光とは、光を通じて理(ことわり)をあらわすことを意味しており、“よりよき人類の眼” こそが真理を探究するものであるということを象徴する。」と、この構想を実現するため三愛ドリームセンターを設計した(株)日建設計の林昌二氏を招聘し、市村と林氏、リコーの山本巌常務(当時)の3人によるリコー館の企画が始まるのでした。

リコー館は「天の眼」「地の眼」「心の眼」の3つの眼で構成されており、直径 25メートルのバルーンと、直径 20メートル、高さ 20メートルの円筒状の建物、それを囲むように動く歩道があり、建物内部は高さ20メートルの空間からできていました。ヘリウムガスで膨らませた鏡面仕上げのバルーンの「天の眼」は、遠隔操作で上昇、降下、回転し、時に空高く浮遊して地上で見上げる人たちの姿を写しました。円筒の建物の外壁には「地の眼」、建物内部に「心の眼」が配置され、その異様さが目を引きました。バルーンに内蔵されたビームライトによる夜間のファンタジックな演出も大人気となりました。地の眼は、円筒の壁面全体にガラス球を並べて置き、正確に光が反射して昼間でも映像が見えるという仕掛け。建物内部の心の眼はまさに瞑想空間のような場所。個性的なデザインの椅子が並べられ、ここにいると過去の世界、未来の世界にいるような無限の広がりを体感できるなんとも不思議な空間でした。

万博はもちろん、リコー館の完成も見ることなく、市村は1968年に天に召されました。“絶対に人まねでない創造であれ”、これが市村の言葉でした。それから2年後の春。市村“最後の傑作” 「万物万象を写し出す」目玉のバルーンが異彩を放ったリコー館はたちまち大評判となり、リコー三愛グループの名前も広く知られることとなりました。この光景、一番見たかったのは市村であったに違いありません。

画像:大行列となったリコー館
大行列となったリコー館
画像:夜間に浮遊する「天の眼」
夜間に浮遊する「天の眼」
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜