今月の市村清

Monthly

“今月の市村清”―2025年11月編―

生前最後の秋

―社員たちの心に笑顔を刻んで―

紅葉の美しい季節を迎えました。市村清がこの世を去った1968年のリコーの業績は3カ年計画の業績目標を2年目に達成し、この年の期末決算では一割の通常配当ができる見通しが立つほどの好調を記録しました。スケジュールも多忙を極め、体調の異変を感じつつも50年来の親友で主治医の大阪・池田回生病院長の村山医師の診察を受けたのは6月のことでした。村山医師は肝臓のあたりにしこりがあることに気づきましたが、7年前の手術跡に異常は認められなかったため経過観察することとして市村は大阪をあとにしました。ようやく仕事が一段落し、9月に精密検査を受けたところ手の施しようもないほど病状は進行しており、2~3カ月間しか生命を維持することができないという致命的なものでした。病の詳細は市村に伏せられ検査入院は1カ月を要し、次第に体力の衰えを感じつつも自宅に戻ると奮起して廊下と応接間を行ったり来たり歩行訓練を開始。2カ月で体力を戻し久しぶりにスーツに袖を通すと社長の責務を果たすため4度の特別な外出をしました。

リコーの増資発表の打ち合わせ、三愛の株主総会、兜町での増資発表記者会見、そして4つ目は11月5日に開催されたリコー三愛グループの合同運動会で、幸恵夫人と共に訪れました。このとき既に身体は衰弱し愛用のステッキをついて歩を進める足取りは痛々しいほどに蹌踉としていました。市村夫妻はロイヤルボックスで白熱する運動会に声援を送り、万雷の拍手が沸き起こる中を幸恵夫人に支えられるようにして会場を後にし、出口付近で一度足を止めゆっくり振り返ると明るい笑顔を人々に返しながら右手を高く振ると拍手は一段と強くなり場内を圧しました。この日が社員にとって市村との最後の別れになるとは誰も想像は出来なかったことでしょう。

それから間もなくして入院をし生への執念に燃えながらも到底この身体では事業を統括していくことは難しいと覚悟した市村は傘下事業の主な会社の後事を託す人物を一人ずつ枕元に呼び、自分が療養する間のことを取り決め記録に残しました。そして三愛会会長の職を三愛石油(当時)の舘林三喜男社長に託し、「リコー三愛グループ各社はバラバラになってはいけないので、三愛会は結束を強化しなくてはいけない。」と、そのための事項が3項目定められました。さらに、遺産を世の中の役に立つ仕事の基金としたい。という思いを具現化すべく新技術開発財団の設立を願い、亡くなる4日前の12月12日に正式に認可を受けたことに安堵し68年の激動の生涯の幕を閉じ永眠しました。このとき、市村事業団(現・リコー三愛グループ)は21社でしたが、現在43社・団体、従業員数は約37,000名にまで成長しました。市村も天上から現在の姿を微笑ましく見守っていることでしょう。

画像:療養中の市村清
療養中の市村清
画像:笑顔で声援を送る市村夫妻 (1968年11月)
笑顔で声援を送る市村夫妻 (1968年11月)