市村清ゆかりの人物
  小出熊吉

ゆかりの人物「小出熊吉」について
ご紹介します。

小出熊吉プロフィール

生没年月日1868年9月10日~?

職業共栄貯金銀行 頭取

市村清を評価し、満州の大東銀行要員として北京赴任を認めた。松岡幸恵を紹介し結婚を薦めた。

市村の人生の岐路に影響を与えた人

小出さんはのちに、共栄貯金銀行の頭取になった人。心機一転、大陸に行きたいというボクの希望を叶えてくれたんだ。そしてお嫁さんも探してくれた。仕事だけでなく、プライベートも親身になってくれてボクにとって生涯の恩人だよ。

「彼は大陸で飛躍するに違いない!」、市村の中国赴任を認め、嫁探しにも奔走

小出熊吉は1868(明治元)年、大関与四郎の次男として東京府で誕生、1893年、小出嘉門の長女・阿く利の入り婿となり、家督を相続。1906年、共栄貯金銀行の前身である共栄貯金会社の監査役に就任しました。
共栄貯金会社は、1900年に資本金1万円で設立された無尽営業会社ですが、1914年に組織変更して、共栄貯金銀行(資本金100万円に増資)と改称しました。本店を東京・神田に置き、大阪・京都・神戸・福岡・札幌など全国に約30の支店を有していました。
組織変更時点での小出の役職は常務取締役でしたが、23年に専務、そして頭取へと昇りつめました。市村清の義兄・原口英雄は組織改変当初から小出に従って任務に当たっており、側近中の側近とも言われていました。
さて、1916年、共栄貯金銀行久留米支店の事務見習いとして社会人の第一歩を踏み出した市村清でしたが、日がたつにつれて己の浅学非才を痛感し、東京で勉強がしたいという思いを募らせていきました。幸いにも上司の配慮で本店への転勤が決まり、1919年、青雲の志を抱いて上京。中央大学にも合格し、順調に歩き始めたかに見えました。しかし、仕事と学問の両立は、精神的にも経済的にも極めて厳しく、ついには結核を患って、生死の境をさまよう日々が続きました。
1922年の初夏、病の危機を脱した市村が小出に相談にやってきました。
「小出常務、私を中国の新しい銀行に行かせてもらえませんか?」
市村は思想的に苦しみ、病苦と闘っていた半年余りの生活を語り、病を完治し、心機一転やり直すために大陸に行きたいと訴えたのです。
市村の真剣さは小出に十分伝わりました。
「よろしい。君がそれほど望むなら出してやろう。やがて発足の時期も決まるだろう。そのつもりでしっかり勉強しておくんだな」
北京に設立された日中合弁の大東銀行(資本金500万円、払込金125万円〈うち3分の2は共栄貯金銀行への預金〉)は、業績も予想以上に好調で、天津分行、上海分行と業務を拡大していきました。
市村は、北京に渡って1年後、上海分行の会計主任を命じられて転任。持ち前の発想力や実行力を駆使して業績を伸ばし、支店長代理、取締役と順調に昇進を重ねていきました。
小出は視察のためにしばしば北京や上海を訪れていましたが、類まれな才能を発揮する市村にすっかりほれ込んでしまい、ついには良い嫁を世話したいと考えるようになりました。いろいろ探しているうちに、上海分行の近くで病院を経営していた松岡玄雄の末娘・幸恵のことを知り、この女性なら市村の妻にふさわしいと確信した小出は、自ら松岡医師を訪ねて頭を下げたのです。
お互いの気持ちが固まるまでに多少の時間はかかりましたが、めでたく縁談が整い、1925年1月、二人は上海一の式場で結婚式を挙げました。
大陸に渡って足掛け3年、市村は幸恵という伴侶を得て、確実に心身の健全さを取り戻し、幸せな人生を歩みだしたと感じていました。そして、仕事から結婚に至るまで親身になって面倒を見てくれた小出への恩を生涯忘れないと心に誓いました。
しかし、時代は好況から不況へと転じ始めていました。
日本経済は第1次世界大戦時の大戦景気から一転して、1920年に戦後不況に陥り、企業や銀行は大量の不良債権を抱えていました。さらに、1923年に発生した関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していきました。中小の銀行はこうした不況の影響を受けて経営状態が悪化、社会全体に金融不安が生じ始め、1927年春、ついに歴史に残る昭和金融恐慌を引き起こしたのです。
数多くの弱小銀行が倒産、閉鎖を余儀なくされましたが、共栄貯金銀行も例外ではなく、同年4月、東京区裁判所から破産宣告を受けました。
さらに、この余波は大東銀行にも及び、たちまち閉鎖となって市村は失業。大陸雄飛の夢は、無残にも砕け散ったのです。
そして、小出は銀行トップとして経営破たんの責任を問われることになりました。

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小出熊吉

以下のページでも小出熊吉について知ることができます。
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜