市村清ゆかりの人物
  岡泰雄

ゆかりの人物「岡泰雄」について
ご紹介します。

岡泰雄プロフィール

生没年1871年3月13日~1941年2月15日

職業千栗八幡宮社掌

佐賀中学を中退した清が通った塾の恩師。千栗八幡宮の社掌を務める。市村は社殿の改造に際し、匿名で大金を寄進した。

市村の人生の岐路に影響を与えた人

岡先生はボクの恩師。佐賀中学を中退して半年過ぎた頃、岡先生の私塾に通ったんだ。先生は独学で教員資格を得た人。先生のように努力をすれば道が拓けると思うと、それからボクは本の虫になったんだ。ボクの読書好きは先生に出会ったお陰。晩年、千栗八幡宮の社掌となった岡先生から寄付の相談があったり、先生との縁は長く続いたよ。

独学でも大成できることを身をもって示した塾の講師

岡泰雄は1871(明治4)年3月、現在の佐賀県三養基郡みやき町中津隅で生まれました。
学歴はなく、独学で教員資格を得て、1887年から地元の小学校などに勤務。1902年、下野小学校校長に就任、その後、広島、福岡、佐賀の中学・高校の教師を務めました。
1907年、三養基郡の千栗(ちりく)八幡宮の社掌となり、さらに、神職の上位階位を取得して、鹿島神宮(茨城県)や千栗八幡宮の宮司を歴任しました。
市村清が佐賀中学を中退して郷里に戻った頃、岡は千栗八幡宮の社掌を務めるかたわら、私塾を開いて村の子供たちを教えていました。
清は家計を助けるため野菜売りを始めましたが、三月、半年と過ごすうちに、再び湧き上がってきた向学心を抑えきれなくなり、父に相談して、仕事を終えた夕方から岡塾に通うことにしました。
当時、岡は40代半ば、人間としても教育者としても脂の乗り切った時期で、温和な表情で説く講義の中にも、高い気概とたゆまぬ努力によって磨き上げてきた人格が輝いて見えました。
“独学でもあんなに偉くなれるのだ。自分ももっと本を読まなければ……”
清は岡の講義を聞きながら、己にそう言い聞かせていました。
市村が「本の虫」となり、膨大な知識を得て自らを形成していったのは、この時の経験によるところが大きいと言えましょう。
晩年の岡は、千栗八幡宮の宮司として日々を送っていました。
『鎮西要略』によれば、千栗八幡宮は724(神亀元)年、当時の肥前国養父郡司・壬生春成が八幡神の神託を受けて千根の栗が生えている地に社を建立、主祭神の応神天皇、仲哀天皇、神功皇后らを祀ったとされています。平安時代後期より肥前国一宮と称してきましたが、江戸時代初期には、與止日女神社(ひどひめじんじゃ、現 佐賀市)と一宮の称を巡る60年にも及ぶ争いもありました。
さて、70に近い老齢の岡にとって、人生最後の望みが千栗八幡宮を県社から国幣小社に昇格させることでした。そこで寄付を募って各方面を訪ね回りましたが、社殿の改造費はめどがついたものの、本殿内陣の費用がなかなか集まりません。最後の頼みとしたのが、30代半ばにしてすでに理研産業団の幹部として成功していた市村でした。
最初、市村は寄付を断りました。神格の象徴ともいえる御内陣に自分のような若造が寄与するのはおこがましい、功成り名遂げてこれから先も過ちのない人にお願いしてほしい、というのがその理由でした。
岡は市村の意を汲み、他を当たると言いましたが、やはり思うようにいかず、再び市村のもとを訪ねました。
「分かりました。寄付はいたしますが、今後、私が不品行な問題などを起こしたとしても神社に傷がつかぬよう、匿名にすると約束してください」
この密約のもと、御内陣の勾玉、鏡、剣などすべてが市村の寄付によって整えられたのです。
神社が国幣小社となった時、父・豊吉は息子が一文も寄付していないと思って大激怒、市村に買ってもらった田畑を売って800円ほど寄付してしまいました。
千栗八幡宮が国幣小社となった翌年の1941年早春、岡は最後の役目を果たして、静かにこの世を去りました。享年71歳。岡の頌徳碑は今も神社の入り口に立っています。
ところで、誰も知らないはずの密約でしたが、岡は御内陣の一部を受け持っていた高田装束店の店主にだけ密かに漏らしていました。
「この御内陣は、私の教え子の市村清という男が寄付してくれたのです。今理研光学の社長になっていますが、若いがなかなか見どころのある男です。私は彼とこのことを誰にも言わないと約束をしたのですが、高田さん、あなただけには話しておきますから、覚えておいてください」
それから数年後、高田がこのことを思い出す瞬間が訪れます。そして、高田の一言によって市村が新たに手掛けた「明治神宮再建」という事業が大きく動き出します。
偶然でしょうか、それとも岡の天上からの采配でしょうか。人生には思いがけないことが起こるものです。

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岡泰雄

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