市村清ゆかりの人物
  柳川平助

ゆかりの人物「柳川平助」について
ご紹介します。

柳川平助プロフィール

生没年月日1879年10月2日~1945年1月22日

職業陸軍中将、司法大臣、国務大臣

司法大臣、国務大臣を歴任した。皇道派の重鎮。

市村の人生の岐路に影響を与えた人

正義感が強すぎて実業家には向いていないのでは?と悩んだ日々。同郷の先輩、柳川さんに相談するとボクはコンペイ糖のように角(欠点)がたくさんあるけれど、丸くなってはいけないと諭してくれたんだ。コンペイ糖の角を無くしたら小さく丸になってしまう。スケールの小さい人間になってはいけないと、励ましてくれたんだ。

「世界一の実業家は誰か?」、
市村に事業の本質を説いた
同郷の陸軍中将

柳川平助は1879(明治12)年10月2日、長崎県西彼杵郡村松村に楠木友太郎の次男として誕生、幼少時に佐賀県の柳川家の養子となりました。
1900年に陸軍士官学校を卒業し、中尉で日露戦争に従軍。12年、陸軍大学校を卒業しました。陸軍大学校教官、北京陸軍大学校教官、国際連盟派遣等を経て、32年、陸軍次官に就き、同じ佐賀出身の陸軍大佐・真崎甚三郎(1876〜1956)らと皇道派の重鎮になりました。
40年、第2次近衛内閣で司法大臣、第3次近衛内閣で国務大臣を務めましたが、45年1月22日、終戦を待たずに病死しました。
さて、理化学研究所の大河内正敏博士の招きで理化学興業感光紙部長に就任した頃の市村は、鼻っ柱が強く、事あるごとに社内外の人たちと対立していました。自分なりの正義を貫いて行動しているのですが、先輩や友人たちからは「君のように理屈が多く、思い込みが強い人間は実業家に向いていない」と言われ、市村自身、組織には不向きなのではないかと悩む日々が続きました。
思い余って、市村は尊敬する同郷の先輩、柳川に相談しました。
「私の性格は実業家に向いていないようです。今のうちに判事か弁護士に方向転換したほうがいいと言う友人もいますが、将軍はどう思われますか」
「君はコンペイ糖のような男なんだ。コンペイ糖に角がたくさんあるように、君には角、つまり欠点が多すぎる。世間の人は、その角をすり減らして丸くなれと言っているんだろうが、それはいかん」
「なぜですか」
「コンペイ糖の角をなくしたら小さな玉になってしまうでしょう。君もスケールの小さな人間になってしまう。人間というものは、正しく真心を持って進んでいけば、多少は孤立しても葬られることなど絶対にないものだ。
ルーズベルトの言葉に“欠点を恐るるは小人の常なり”とあるが、僕も同感だね。欠点を直すことよりも、むしろ長所を伸ばすことに力を注いだほうが懸命だと思う。
そうして、だんだん年をとっていけば、無用なけんかや衝突はしなくなり、自然と角が取れて丸くなっていく。その時は、同じ円満な人物でも大きさが違うよ。
僕は今はまだ角のたくさんある君に期待している。無理に角をすり減らして小さく生きるより、思い切ってそのままの生き方でおやりなさい」
努力をしても人間の性格的欠点はなかなか直らない。むしろ自分の長所を生かすことによって、自然に欠点も目立たなくなるということだろう。市村は、コンペイ糖にたとえた柳川の話に感銘を受け、迷いを捨てて実業家として生きていく決意を新たにしたのです。
1943年ごろのこと、柳川は市村に問いました。
「君は世界で一番偉い実業家は誰だと思いなさるかね」
「・・・・・・・・」
「黙っているところをみると、思い浮かばないようだね」
「ええ……、将軍は誰だと思いますか」
「お釈迦様さ」
「えっ!……」
「お釈迦様がこの世に現れて3000年余りになるが、現在でもその仏弟子は370万人もいる。今までの仏弟子の数は、おそらく何億にもなるだろう。彼らは釈迦の教えをそのまま伝えるだけで信徒から貢ぎ物を受け、立派な伽藍や殿堂を建ててもらい、伝道以外には働かないで食っていける。お釈迦様こそ偉大なる実業家だと僕が信じているゆえんだよ」
市村は柳川の話に衝撃を受けました。
“お釈迦様になぜ何百億もの人たちが心を捧げてきたのか。それは私利私欲を捨てて、誰もが幸福になるようにと悲願を持たれたからだ。すなわち、大きな人類愛の上に立たれたからこそ、人々の心をつかんだのだ。事業家も衆生済度に近い気持ちで大衆のためを目指さなければ、真の繁栄はあり得ない”
「事業の本質は世のため人のために尽くすことにある」、市村が生涯貫いた信念です。
柳川は市村の人生における“良き理解者”であり“良き助言者”であったと言えるでしょう。

ここでも学べる!
柳川平助

以下のページでも柳川平助について知ることができます。
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜