市村清ゆかりの人物
  石坂泰三

ゆかりの人物「石坂泰三」について
ご紹介します。

石坂泰三プロフィール

生年月日1886年6月3日~1975年3月6日

職業第2代 経団連会長

第2代 経団連会長
財界人の中でもっとも師事した人物であり知友。市村が生前、リコー三愛グループの事業の後見として相談役を託した。

切磋琢磨して高め合ってきた師・友

石坂さんはボクが最も信頼している友。そして、事業家のボクを支え導いてくれた恩人なんだ。ボクが永遠の眠りに就くとリコー三愛グループの相談役も引き受けてくれた。公私にわたりボクを支えてくれた恩人で、感謝の気持ちでいっぱいなんだ。

市村が最も師事した財界の大立者

石坂泰三は1886(明治19)年6月3日、東京に生まれました。
旧制一中(現 都立日比谷高校)、旧制一高(現 東京大学教育学部および千葉大学医学部・薬学部の前身)、東京帝国大学(現 東京大学)を経て、1911年、逓信省に入省しました。
上司から第一生命保険相互会社(現 第一生命保険株式会社)の矢野恒太社長を紹介された縁で、1915年、逓信省を退官して第一生命に入社、1938年、同社取締役社長に就任しました。
戦後は、倒産寸前だった東芝の再建をはじめ、数々の企業や経済団体の運営に携わり、1956年、第2代経済団体連合会会長に就任、12年間にわたり日本の経済界をけん引しました。
1975年3月6日、死去、享年88歳。
1950年6月、石坂と市村はスイスで初めて出会いました。
所用でパリに滞在していた石坂は、MRA(道徳再武装運動)世界大会に日本も参加すると聞いて、激励のために開催地であるスイスのコーを訪ねました。
MRAは第2次世界大戦直後、アメリカの宣教師フランク・ブックマンが提唱した道徳の再興を機に拡大した世界的な運動で、日本はこの年に初めて参加。代表団は各界から選ばれた60人で構成されており、市村は産業界の代表の一人として加わっていました。
石坂は帰国後も代表団の会合に顔を出すようになり、市村とも親交を深めました。そして、市村はこの財界の大立者に師事し、助言や協力を仰ぐようになっていったのです。
後年、石坂は市村について、「率直な人柄、情熱あふれる態度、卓越した着想、洒脱な話術に魅せられた。銀座4丁目角に建てた総ガラス張りの円筒形のビル(三愛ドリームセンター)と真夜中に行われた開館披露宴には心底驚いた」と語っています。
1961年、アメリカの成長産業の一つに「リース産業」があるという情報を得た市村は、長年温めていた「物を貸す商売」の実現に向けて動き出しました。早速、経団連会長である石坂を訪ねてリース業の必要性を説き、財界の協力を依頼。石坂は市村の新事業構想を高く評価し、快諾しました。
1963年8月、日本初のリース会社「日本リース・インターナショナル」誕生。石坂も市村の懇請を受けて役員陣の一人に名を連ねています。
1965年11月、石坂は日本万国博覧会(大阪万博 1970年開催)の協会会長に就任しました。
同じ頃、市村は、リコー初の無配転落など続いて起こった憂慮すべき事態に、一時は自殺も考えたほど苦難に満ちた日々を送っていました。
幸いにも新製品「電子リコピー」が大ヒットし、次々と打ち出した積極策も功を奏して業績回復の兆しが見え始めた1967年4月、市村は大阪万博への出展参加を決めました。危機を脱したばかりで消極論、慎重論が多い中、「世界の何百万もの人が来て、世界の一流企業が参加して知恵を競うこの産業界の祭典にリコーが参加しないのは耐えられない」と言い放ったのです。
リコーは出展申し込み第1号でした。そして市村の思い通り大阪万博では大成功を収めましたが、市村自身はそれを見届けることができませんでした。
1968年12月16日、市村死去。
12月20日、築地本願寺で執り行われた葬儀の葬儀委員長を務めたのは、14歳年上の石坂でした。
「市村清君 ここに最後のお別れを申し上げます。
君が辛苦に身を起し、君の波乱万丈の人生は(つと)に人の知るところ、その事業経営に示された泉の湧くが如き天外の着想と、生命を賭した烈々たる闘魂と比倫を絶する実行力や、忍耐力に(つい)ても、(また)贅言(ぜいげん)を要せざるところであります。この君の為人(ぜいげん)をよく知る私には、君の己に対する厳しさと酷使が君の健康を奪ったように思われて、痛恨極まりなく、述べる辞も知りません。・・・・・・
今や、我国は一応産業の復興は成りしものの問題は内外に山積するの秋、これからが君の真に面目を発揮出来る日を前に、この異色ある一大偉才を失ってしまった。君に()つもの甚だ大なるものがあったと申すべく、財界の一大損失と申さねばなりません。・・・・・・」(弔辞より一部抜粋)
なお、翌年1月、石坂は市村の要請を受け、リコー三愛グループの相談役に就任しました。わが子のように育て上げたグループの後見役を最も信頼する人たちに託す、それが市村の人生最後の仕事だったのです。
石坂泰三
リコー館に夢を託して日本万国博覧会協会 石坂泰三会長と市村清
(1968年7月9日)

ここでも学べる!
石坂泰三

以下のページでも石坂泰三について知ることができます。
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜