市村清ゆかりの人物
  市村豊吉

ゆかりの人物「市村豊吉」について
ご紹介します。

市村豊吉プロフィール

生没年1866年〜1947年6月24日

市村との関係市村清の実父

豊吉の実父は佐賀藩士の市川虎之丞。7歳の時に市村新太郎の養子になる。

心を許せるもっとも身近な存在

ボクの父さん、市村豊吉の後編。父さんはウナギを捕まえるときはウナギの泡が出ている方向が居場所であり、動く方向を見ていれば捕まえることができると教えてくれた。習性や周囲の状況を捉えて判断すること。父さんから教えはボクの人間形成に影響大なんだ。

実業家・市村清は父の資質を受け継いだ

食うや食わずの暮らしの中で、愚痴を言うでもなく、あくせくするわけでもなく、どこか超然としている豊吉の行動には、時として深い観察と物事の真相をついた合理精神がひらめくことがありました。
のちにアイデアの神様と称された市村清は、こうした豊吉の DNAを受け継いでいたのかもしれません。
市村が父から受けた教訓「そのものを狙うな」の意味は・・・。
佐賀平野には治水のための掘割が無数にありました。市原村のハス堀はその中でも特に大きなもので、冬のレンコン掘りの時期になると、村の入札で収穫権が決められました。
普段は生業に精を出さない豊吉でしたが、なぜかこの仕事には積極的で、毎年権利を落札し、他人には真似のできない知恵を出して収穫量を上げて、得意満面になっていました。ただ、幼い清には全身泥にまみれてレンコン掘りをしている父の姿が貧乏の象徴のように思えて、自分は絶対こんな生活から抜け出してやるという反抗心を燃えたぎらせていました。
ハス堀は夏になるとウナギ捕りの格好の漁場となりましたので、豊吉は清を連れてよく出かけて行きました。
長い竹ざおの先に金具を付けて、堀の底をかき回してウナギを引っ掛けるのですが、豊吉のさおには次々と掛かるのに、清は全く捕れません。
「おれのさおにはちっともあがらんばい」
「浮き上がってくる泡をよく見るんだ。それがウナギの居場所を教えてくれる」
豊吉がさおで水底をかき回すと無数の泡が浮き上がってきます。それは、それまで泥の上にいたウナギが慌てて泥に潜るときに息をした泡の列で、よく見ていると、ウナギの動く方向や、ウナギの大きさまで分かるというのです。
しかも、豊吉はさおの使い方が他の人とは違っていました。みんなはウナギの潜った方向にさおを縦に動かしますが、豊吉は横に動かします。ニョロニョロと長いウナギを相手にするのだから、その方が何倍も効率が上がると読んだからです。
九州では筑後川と柳川のウナギがうまいと評判で、ある日、豊吉と清は柳川にウナギ捕り出かけました。
「清、ここではお前ならどうする」
舟に乗り込んでから豊吉が聞きました。沼や堀と違って水の流れがあり、深さもだいぶあって清には見当がつきません。
豊吉は流れの速さを知るために舟端から麦わらを投げ入れ、さおで深さを測りました。流れと深さを加算してからか、かき回し始めるというわけです。
清は父の観察力と理屈に合ったやり方にすっかり感心してしまいました。
12、3歳の頃の清は、近くの野原でスズメ捕りに夢中になっていました。
長ざおの先にとりもちを付けてスズメを刺すのですが、足音を忍ばせて、後ろからそっと近づいても、スズメは素早く飛び立ってしまい、なかなかうまくいきません。
「ばかだな、お前は。スズメを狙うやつがあるか」
——何を言っているんだ、おやじは。スズメを捕るのにスズメを狙わないでどうするんだ。
「スズメはどっちの方向に飛ぶんだ。スズメが一番大きくなるのは飛び立つときだろう」
訳も分からないまま、清はやけくそになって、止まっているスズメの少し前にさおを突き出しました。
すると、その瞬間、パッと飛び立ったスズメがピタッととりもちにくっついたのです。
「あっ、くっついた!」
清は父の忠告がやっと理解できました。
“スズメを捕るのに、目に見えているスズメそのものを狙ってはならない。スズメの習性や周囲の状況を考えた上で、タイミングを合わせるのだ”
後年、戦争が激しくなってB29の編隊が東京上空に襲来、しかし日本軍が放つ高射砲の弾丸は、ほとんどB29の通り過ぎた後で炸裂し、効果を上げません。
“高射砲はB29そのものを狙っているのではないだろうか。それでは、スズメ捕りの時の自分と同じだ。B29のスピードと、高射砲の弾丸が上空に達する距離とを考えれば、ずっと先を狙わなければならないはずだ”
「少年の頃のスズメ刺しと、戦争末期に見たB29射撃の二つの挿話は、目的とぴたり一致する方法がいかに人間の欲望と離れたところに存するかを証明している。この場合、何が一番大切かということを、よほどよく考えなければならないことを教えている。父が私に残してくれた無形の遺産のうちでも、これは最も尊いもので、それ以後の私の人生にも、事業経営にも大きなプラスになっているのである」

(『そのものを狙うな−わが人間的経営−』より)

さて、理屈に合わないことはたとえ軍隊の上官の命令であっても反抗したほどの気骨のあった豊吉は、子供に対しても筋金入りの厳しさがありました。特に卑劣な行動を許さず、いたずらが過ぎた清を墓地の大木に何時間も縛り付けておいたこともありました。
清はそんな父が恐くてたまりませんでしたが、よく考えてみれば、自分に非があることは明らかで、ひきょうな人間には絶対ならないと子供心に誓ったのでした。
“人を愛する”を第一とする市村の人間性もまた、父・豊吉から受け継いだ資質であったといえましょう。
市村豊吉
1918年頃 佐賀県北茂安村の生家前にて、右端が父の豊吉、その隣は母のツ子、真ん中が清

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市村豊吉

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今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜