市村清ゆかりの人物
  市村新太郎

ゆかりの人物「市村新太郎」について
ご紹介します。

市村新太郎プロフィール

生没年1837年~1911年11月18日

市村との関係市村清の祖父

男子の初孫(清)を溺愛する新太郎によって注がれた愛情が人の情の温かさが大切なことを清の心に植え付けるきっかけとなる。

心を許せるもっとも身近な存在

仔牛を育てて成長したら牛を売って学費にすることをすすめてくれた祖父。幼少期に新太郎から注がれた大きな愛情は“人を愛すること”の大切さをボクの心に植え付けてくれたんだ。

清少年に進学の方策を授けた最愛の祖父

市村新太郎は1837(天保8)年生まれ、佐賀県三養基郡白壁郷市原(いちばる)の農民でした。
市原は辺ぴな小村で、村民は1町4、5反の田畑を持っている裕福といえる家がほんの2、3軒、あとは5、6反の田地があるか、小作だけという貧しい農家ばかり。新太郎も自作田1反5畝、畑が1反そこそこの合わせて2反5畝(約750坪、2,500平方メートル)の耕地しか持たない、村でも最下層に属していました。
1877(明治10)年、佐賀藩の軽輩の武士であった市川虎之丞に懇願されて、虎之丞の息子・豊吉を養子として入籍、この時、市川の一字をとって、「市村」を名字としました。戸籍制度ができて間もない頃のことです。
1900(明治33)年4月4日、清誕生。父の豊吉は大陸に出征中でしたが、男の初孫を得た祖父母の新太郎・シマ夫婦は大喜び、特に新太郎は「清、清」と、まさに目に入れても痛くないほどのかわいがりようでした。
しかし、貧しい生活は相も変わらずで、食べることに精一杯の日々が続いていました。
清が小学2、3年生の頃のこと、
「清、お前は学校の成績が大変いいようだが、今のうちの状態ではお前を上の学校に行かせてやることはできないだろう。そこでおじいさんが一つ、良い方法を教えてやろう。お前に雌の子牛を一頭買ってやるから、それを一生懸命育てるのだ。そうすれば、その牛は次々と子を産んで、お前が中学や大学へ行く頃には何頭かに増えるだろう。それを売れば学校へ行けるというわけだ。どうだい、やってみるか」
数日後、新太郎はどうやって金を工面したのか、本当に子牛を一頭を手に入れて来て、清に与えました。
その日から清は、夢中になって子牛の世話をしました。毎日、学校から帰ると遊びにも行かずに飼料となる草やサツマイモのつるを刈り集め、時々もらうお小遣いは使わずにためて、子牛のためにおからや穀類を買いました。半年、1年とたつうちに、子牛はめきめきと大きくなり、清の進学の夢もどんどん大きくなっていきました。
“いつ子を産むかな、2頭になると忙しくなるぞ”
ある日突然、執達吏という人がやって来て、子牛を持って行くと言います。なぜか父も母もそれを止めようともしません。
「この牛は僕がおじいさんに買ってもらって、自分のお小遣いをためて育てたんだ。誰が何と言ったって、よその人になんかやるもんか」
清は泣きわめいて、執達吏の腕にかみつきました。
「清、お国で定めた税金というものを払わなければいけないんだけど、うちにはお金がない。牛はお金の代わりなんだから、諦めるしかないんだよ」
新太郎はそう言って清をなだめるしかありませんでした。
清は泣きじゃくりながら、はだしで村はずれの土手に駆け上がり、執達吏に引かれていく牛の姿が見えなくなるまで見送っていました。
「清、いつまでそんなところにいるんだ。おじいさんがまた何とか考えてやるから、早く家に帰りなさい」
清との約束も果たせぬまま2年が過ぎ、新太郎は病気を患います。
貧乏のため、満足に医者に見せることもできず、病床に伏したままやせ衰えていく祖父を、清は夜も寝ないで必死に看病しました。しかし、新太郎が再び起き上がることはありませんでした。
1911年11月18日、新太郎死去、享年73歳。
11歳の清が人生において初めて経験した人の死の衝撃、しかも、失われたのは最愛の祖父でした。悲しみに打ちのめされ、心に空いた大きな空洞をどうすることもできず、一人で祖父の墓に行き、ただぼんやりと空を見ている日々が何日も続きました。
かなわなかったとはいえ進学のための唯一の方策を授けてくれた、誰よりも大好きだった祖父。新太郎の死は、執達吏に連れて行かれた牛の思い出とともに、苦悩の追憶として、清の心の中に深く刻まれたのでした。
後年、市村清は「人を愛する」を人生の理念の一つと決めました。幼少期に祖父・新太郎から注がれた大きな愛情は、人を愛することの大切さを市村の心に植え付け、それが次第に醸成されていったともいえましょう。

ここでも学べる!
市村新太郎

以下のページでも市村新太郎について知ることができます。
今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜